『お前にはまだ笑う能力が残っている いまわのきわまで保つように ―― vol.19「市村優奈 “sale”」(2026年5月22〜24日)によせて』
文=平岡希望
臙脂のエプロンをまとった市村さんに連れられ、赤レンガ造りのビル内を進む。腕カバーにゴム手袋。口元にはマスク。さっきまで衛生帽が掛けられていたのは、そういえば前回の Margaux Lelièvre さんの個展で、「『いまにも開花せんばかりの小さな草』みたいな蕾」[1]があったあたりではなかったか。…と思い返している間にも右折。その右奥にエレベーターを察知できるのは探検したからだ。この日も、予約した18時まで30分ほど歩きまわったが、そのとき動いていた、地階へ続く踊り場の洗濯機はもう止まっていた。傍らで待っていたらしい、エプロン姿の、スナックのママ風の人ももういなかった。
2階に上がった私たちが通り過ぎていく店々もまだ静かだ。ただそれは、出番の前に黙々とウォーミングアップをこなすような張りのある静けさで、押していたキャスターワゴンを階段前に停め、市村さんが振り返った。どうやらここでパフォーマンスを行うらしい。
「あなたのいいところを、私に教えてください。」という彼女の問いに答える上で 霧雨まじりの風は当てにならなかったが役には立った。なにしろ気恥ずかしさを冷ましてくれたのだから。「一枚の絵を、数時間見続けることができます。」「そうして見たものを、文章で表すことができます。」とひとつ私が答えるたびに、
「妹はカレー屋さんの上映会にまたいくようになり、そこで出会った美大生といい感じになった。妹がだれかとつきあったり、別れたりする度に私は壁にペンキで妹の好きなポケモンを描いた。
『人生経験が積まれるほど壁のゼニガメも増えるからがんばってね!』自分でもなにをいってるのかよくわからなかったが、妹はよろこんでくれた。」[2]
ワゴンから台紙を取って肩へ、頬へ、そして額へ彼女が貼ってくれたのはゼニガメではなく「増額シール」だ。ふいに風が強まって何回か舞い散ることはあっても、
「叩きつけるような雨と烈しい風が永い夜の間じゅう荒れ狂ったというのに、煉瓦壁の上には蔦の葉が一枚まだはっきりと残っていた。それは蔓に残っている最後の一葉だった。葉のつけ根の近くはまだ濃い緑色だが、鋸の歯のようなへりは黄色く朽ちはてている葉が一枚、地上から二十フィートほどの枝に敢然と残っていた。」[3]
落ちきってしまわなかったのは私にいいところがたくさんあったから。ではもちろんなく、「まだまだいいところがたくさんあるはずですよ。」「この調子で30個は出していきましょう。」と市村さんが励まして、シールを増やし続けてくれたからだ。
「ねえ、窓から、あの壁の上の最後の蔦の葉を見てごらんなさい。風が吹いているのに、ひらひらもしなければ動きもしないのを不思議だと思わなかった?ねえ、ジョンシー、あれがべールマンさんの傑作なのよ ―― 最後の一葉が散った夜、あの人はあれをあそこに描いたのよ。」[4]
最後の一葉と違ってはらはらと、それこそ葉のように落ちていくシール=「いいところ」をそれでも貼り続けることは、
「だからもろもろの物を利用してそれをできるかぎり楽しむ(と言っても飽きるまでではない、なぜなら飽きることは楽しむことではないから)ことは賢者にふさわしい。たしかに、ほどよくとられた味のよい食物および飲料によって、さらにまた芳香、緑なす植物の快い美、装飾、音楽、運動競技、演劇、そのほか他人を害することなしに各人の利用しうるこの種の事柄によって、 自らを爽快にし元気づけることは、賢者にふさわしいのである。」[5]
「もろもろの物を利用してそれをできるかぎり楽し」み、「自らを爽快にし元気づける」営みとも重なる。そして、他愛もない「いいところ」をカウンセラーのごとく聴いてくれる市村さんのパフォーマンスは、むしろそれが終わった後にこそ、
「しかし、自らが善行をなしているにもかかわらず、 誰にも見られてはいけないし、自分でそれを目撃してもならないという状態に人間は『長時間にわたってはとても堪えられるものではない』。〔……〕そしてここから、信仰についての一つの必然性が導き出されている。それに堪えられない人間は、何とかして自らの善行の証人を召喚する。それが想像上の証人である神である。誰も見てくれていないし、見られてはならない。私も見ていないし、見ていてはならない。ただ神だけが私を見てくれている……。 」[6]
「いい子だから泣かないで、わたしは水のような声は持っていないし、ただ音のしない光だけなんだけれど、でも、この世の終わりまで人間のそばについていてあげますよ。注ぎ込む月の光にも、ほほえむ星の輝きにも、上がってくる夜明けの光にも、ともされるランプの光にも、それからあなたたちの心の中の良い明るい考えの中にも、いつもわたしがいて、あなたたちに話しかけているのだということを忘れないでくださいね。」[7]
「想像上の証人」となって、参加者である私たちを、そして彼女自身をも照らすのではないか。さらに言えば、それは他人だけでなく自分に対しても「一人の人のなかの無限の可能性」[8]を感じ続けることともつながるはずだ。
「このことは、裏を返せば、『目の前にいるこの人には、必ず自分には見えていない側面がある』という前提で人と接する必要があるということでしょう。それは配慮というよりむしろ敬意の問題です。この人は、いま自分に見えているのとは違う顔を持っているのかもしれない。この人は、変わるのかもしれない。変身するのかもしれない。いつでも『思っていたのと違うかもしれない』可能性を確保しておくことこそ、重要なのではないかと思います。」[9]
「定理五三 謙遜〔自劣感〕は徳ではない。すなわち理性からは生じない。
証明 謙遜は人間が自己の無能力を観想することから生ずる悲しみである。しかし人間が自己自身を真の理性によって認識する限り、彼は自己の本質を、言いかえれば自己の能力を認識するものと想定される。だからもし人間が自己自身を観想するにあたり自己のある無能力を知覚するとしたら、 それは彼が自己を真に認識することから来るのではなくて、むしろ彼の活動能力が阻害されることから来るのである。」[10]
「忘れないで下さい。他人に讃められると云うことは何にもならないのです。自分の血を絞り肉をそいでさえいれば人は皆よろこびます。ほめます。ほめられることが生き甲斐のあることでないと云うことを忘れないでください。何人でも執着を持ってはいけません。ただ自身に対して丈けは全ての執着を集めてからみつけてお置きなさい。」[11]
「自分の血を絞り肉をそいで」しまわないこと。その戒めとして、私は手帳に貼り付けた。もらって帰ってきた30枚の増額シール、その内の1枚を。〈了〉
注
タイトルは、茨木のり子「笑う能力」『倚りかからず』ちくま文庫,p.70より。
[1]平岡希望『世界の安定性は芸術の永続性の中で透明になった ―― vol.18「Margaux Lelièvre “Handle with Care”」(2026年4月5〜25日)によせて』より。
http://call-box.jp/dial107/1835/ (2026年5月27日閲覧)
[2]大前粟生「たのしいことに水と気づく」『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』河出文庫,p.130
[3]オー・ヘンリー/著,大津栄一郎/訳「最後の一葉」『オー・ヘンリー傑作選』岩波文庫,p.238
[4]同書,p.241
[5]バールーフ・デ・スピノザ/著,畠中尚志/訳『エチカ ― 倫理学(下)』岩波文庫,p.70
[6]國分功一郎「複数の人間、哲学者、善行を行う者 ―― アメコミヒーローより考察されるアーレントの『誰』概念」『現代思想2026年2月臨時増刊号 特集=ハンナ・アーレント -生誕120年-』青土社,p.44
[7]モーリス・メーテルリンク/著 ,堀口大學/訳『青い鳥』新潮文庫,p.218
[8]伊藤亜紗『手の倫理』講談社選書メチエ,p.50
[9]同上
[10]『エチカ ― 倫理学(下)』pp.77-78。なお、引用文中の丸括弧(e.g.,「感情の定義二六より」)については省略。
[11]伊藤野枝「遺書の一部より」栗原康/編『狂い咲け、フリーダム アナキズム・アンソロジー』ちくま文庫,p.47