『“幼子” に注ぐ4つのまなざし ―― 企画展 vol.13「中村悠一郎 4つのポストアーティスト Series 4 カンヅメコノミー」(2025年8月23~28日)に寄せて』
文=平岡希望
「その頃は、たしかここしかCT(スキャン)なかったんだよ、新宿区で。」
と、callbox から徒歩1分も離れていない「春山記念病院」のそばで母がこぼした「その頃」は40年以上を遡って、そこがまだ「春山外科病院」だった “その頃”、「新宿タウンプラザビル」は築数年をかぞえたばかりだったはずだ。半世紀弱が流れ、その一角に入居した callbox のウインドウ越しに臨んだ6枚のドローイングは、エックス線のごとく、樹皮の内奥まで貫き見るような目を感じさせるもので、《宝木ドローイング》と題されたそれらは佐塚真啓さんの作品だった。
そして、画家の視線が対象へずぶずぶと “刺さって” いくための時間は、とりもなおさず、
「きみにとってもぼくは、ほかの十万のキツネとなんの変わりもない。でも、もしきみがぼくをなつかせたら、ぼくらは互いに、なくてはならない存在になる。きみはぼくにとって、世界でひとりだけの人になる。ぼくもきみにとって、世界で一匹だけのキツネになる…」
(サン=テグジュペリ 著 ,河野万里子 訳『星の王子さま』新潮文庫,p.100)
ただの木片を「宝木」へ変える、「なつかせる」ための時間でもあって、
「《宝木ドローイング》1枚→60缶詰」
「モチーフとなった『宝木』本体→370缶詰」
作品とモチーフの観点からすれば上の値付けは転倒しているように見えるが、描くことで「なつかせた」対象、その関係性として捉えればその価値がわかる、というのも、常に社会や世界が私たちよりも先に存在する以上、なにかを「なつかせる」よりも “なつく”、あるいは “馴らされる” ことのほうが多いからだ。ひるがえって、缶詰を貨幣に見立てた「カンヅメコノミー」をはじめ、中村悠一郎さんがひと月をかけて紹介してきた「4つのポストアーティスト」は、私たちが “なつき”、時に “馴らされてきた” システムやそれに伴う認識を遊戯的に相対化するもので、
「太陽は神であるかないか、などと考えるのが現代人の特徴である。そうではなく、ユングが『光の来る瞬間が神である』と表現しているように、その瞬間の体験そのものを、『神』と呼ぶのである。あるいは、そのような原体験を他人に伝えるとき、それは『物語』によって、たとえば、黄金の馬車に乗った英雄の登場としてしか伝えられないのであり、そのような物語が神話と呼ばれるのである。」
(河合隼雄 著, 河合俊雄 編『〈物語と日本人の心〉コレクション Ⅲ 神話と日本人の心』岩波現代文庫,p.8)
物語は世界と出会い、つながり、伝えるための術だった。そして、
「『美』はあらゆるところに潜み漂っている。しかし、『美術』は『美』を見つけるだけの『術』ではない。さらに一歩踏み込んで、見つけた『美』を社会というテーブルにのせる『術』でありたい。『美術』は自己完結し得ないのである。あなたが『石コロ』に感動し、それをポケットに入れただけでは、まだ『美術』ではない。(…)落ちていた『ただの石コロ』があなたにとって『大事な石コロ』になるまでの『心の動き』を露わにして、自分以外の人にも、あなたが『石コロ』との会話を通して見えた『景色』を見せる事。その表出させる姿勢こそが僕が思う『美術』である。」
(佐塚真啓『美術について』奥多摩美術研究所,p.13)
美術もまたそのはずで、中村さんは “石コロ1つ分の世界” を取り出し、生まれたての、まだやわらかかった頃へと仮想的に “退行” させることで私たちを出会い直しへといざない、そこには、
「わたしは諸君に、精神の三つの変化について語ろう。いかにして精神は駱駝となるか、いかにして駱駝は獅子となるか、そして最後にいかにして幼子となるかを。
強く、重荷に耐え、畏れを宿している精神には、多くの重いものがあたえられる。その強さこそが、重いものを、もっとも重いものを求めるのだ。
何が重いのか。そう重荷に耐える精神はたずねる。そして駱駝のように膝を屈して、多くの荷物を負おうとする。
(…)
だが、荒涼とした人影もない砂漠のただなかで、第二の変化が起こる。精神は獅子となり、自由を獲得しようとし、おのれ自身の砂漠の主になろうとする。
(…)
精神はかつて『汝なすべし』をみずからのもっとも聖なるものとして愛した。今や精神はこのもっとも聖なるもののなかにすら、妄想と恣意とを見出さざるをえない。こうして彼はみずから愛していたものからの自由を奪い取る。この強奪のために獅子が必要なのだ。
しかし言うがいい、わが兄弟たちよ。獅子にすらできなかったことが、なぜ幼子にできようかと。なぜ強奪する獅子が、さらに幼子にならねばならないのかと。
幼子は無垢だ。忘れる。新たな始まりだ。遊ぶ。みずから回る輪だ。最初の運動だ。聖なる『然りを言うこと』だ。
そうだ、わが兄弟たちよ。創造という遊びのためには、聖なる『然りを言うこと』が必要だ。ここで精神は自分の意志を意志する。世界から見捨てられていた者が、自分の世界を獲得する。」
(フリードリヒ・W・ニーチェ 著,佐々木中 訳『ツァラトゥストラかく語りき』河出文庫, pp.39-42)
私たち自身が “幼子” になることまで含意されているのかもしれなくて、私はビルをうろうろし始めた。小学校の中も外も、くまなく探検していたあの頃のように。〈了〉
注)タイトルは、オリヴィエ・メシアンによる独奏ピアノのための曲集『幼子イエスに注ぐ20のまなざし』を参照している。