『で、あなたは、いったい何を探しもとめているのか? ―― 企画展 vol.13「中村悠一郎 4つのポストアーティスト Series 2 メタメタメタバース」(2025年8月9~14日)に寄せて』
文=平岡希望
500円を入れレバーを回す。郵便受けに届けられた手紙のように、ガコンと落ちてきたカプセルには言葉が入っていて、5cm×3cmほどのそれを慎重にめくれば、
大切な人に手紙を書いてみよう。
子貢(しこう)、告朔(こくさく)の餼羊(きよう)を去らんと欲す。子曰わく、賜(し)や、爾(なんじ)は其の羊を愛しむ。我は其の礼を愛しむ。『八佾第三』
と書かれており、赤レンガ風の壁紙に囲まれ、豆本版『マイメロディの論語』(朝日文庫)が出てくるここは、大久保駅北口高架下のガチャガチャ専門店だ。線路沿いの法面を左手に3分ほど直進し、南口改札のあたりで右折してもう2分も歩けばcallboxにたどり着いて、そこにもまた1台、白い筐体がはぐれたように鎮座していた。
抹茶色の“小上がり”に置かれたその中には漆黒のカプセルが二十数個収められており、その1つ1つに封入されているという「META META METAVERSE は有限の存在ではない。」などのテキスト群が、「人々が空想することすらできない仮想の仮想の世界である」メタメタメタバースをかすめ、その輪郭を定めようと試みるがごとく、
この油の表面が、私たちの惑星の表面である。この紙の切れはしが、大陸である。このもっと小さな紙きれが、船である。ここにある細い針の先で、船を大陸のほうへそっと押してみます。ごらんのように、船を岸につかせることはできません。(…)そこでいま、大陸を巡っているこの油の見えない構造が、いわゆる「物質」の体をなしたものばかりでなく、光線をもはねかえしてしまうと仮定してみましょう。(…)そのおかげで、けっきょく、すべてはあたかも〈類推の山〉が実在しないかのように生起します。(…)A点から船の進行方向へ私は望遠鏡をむけます。灯台Bが見えますが、その光は〈類推の山〉にそって迂回してくるわけで、(…)私の船自体が、乗っているすべてのものといっしょに曲がりながら、図の上に引いたAからBへの迂回路をとるでしょう。
(ルネ・ドーマル 著,巖谷國士 訳『類推の山』河出文庫,p.64およびpp68-70)
〈類推の山〉を“論証”していく登場人物・ソゴル氏は、「日の出あるいは日の入りの、太陽の円が水平線をはなれてしまわないあいだだけ『歪みの殻』が開く」(cf., 同書,pp.71-73)ことを突き止めた。callboxもまた、この会期中に限りウインドウの錠が解かれており、右手でゆっくりと引き開けたその中で、アーティストの倉石幸彦さんや森田茉結さんがパフォーマンスしているのを見たことはある。しかし、鑑賞者である私にとって入るのは初めてで、本展DMを広げてメタメタメタバースの図を見れば、“Realty”と“META META METAVERSE”とを架橋する“Meta Metaverse”、すなわち「それぞれの頭の中に広がる空想上の世界の中にのみ存在するメタバース的な仮想世界」(https://creamsodamuseum.org/meta-metaverse/ より。2025年8月10日閲覧)へのアクセスを、callboxに入室することが象徴していたのではないか。
ウインドウを閉めると喧噪が遠のき、バッグを膝に置き抱えるように屈みこんで500円玉をすべり落とす。ガチャガチャを回すときはいつも少し不安で、それは一拍後に訪れる、空転しているようなたよりなさのせいだろう、落下する夢のように、痙攣的に現れたカプセルという殻を割るまで、そこにはメタメタメタバースに対する“すべての”否定の可能性が包含されているはずで、『類推の山』は著者の死によって、一行が高度順応しているところで未完となった。〈類推の山〉は、まさしく登頂できない場所となって、メタメタメタバースもまた、人類が想像することのできない仮想の仮想の世界であり続けるのだろう。
〈「Series 3 オルタネームコミューン」に続く〉
注)タイトルは『類推の山』p.176によるもので、最終章の題名となるはずだった。